2008年03月06日

マーラー交響曲第4番ト長調

 昨日は仕事が休み。
 朝子供たちと家で過ごしていると、
どこかで聴いたことのある、サンタクロースの鈴の音のような音が耳に入った。僕は付けてあった教育テレビの方を向き、この旋律なんだっけと一瞬考えてしまった。

 教育テレビといっても、名曲アルバムではなく、プチアニメ「ちぃちゃんとひげおじさん」というわずか10分程度の子供番組である。

 曲はマーラーの交響曲第4番の第一楽章を編曲したものだった。ずっと聴いていると第1楽章の第1主題提示部がそのまま演奏されている。僕はマーラーの曲が子供向けの番組に使われていたことに対する驚きを感じながらも、この曲はこんな風にも受け取ることが出来るのだなとほほえましい気持ちになった。

 マーラーは、子供や民謡と言った要素をその創作の中にしばしば取り上げているが、「大人の童話」「現実逃避」と受け取りかねない要素があるのは事実だ。同じ子供をあつかった作品としてチャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」があるが、この曲とは全く異質である。2人とも苦悩の作曲家というイメージが強いが、この両者の違いは何だろう。僕は作品の中に、作曲者のパーソナリティーが表現されているかどうかが分岐点だと思っている。

 
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2008年06月13日

マーラー 亡き子をしのぶ歌

 6月になって少しペシミスティックになった自分を何とか奮い立たそうとしているのだが、いろいろと痛ましい思いがこみあげてきてなかなか憂鬱な気分が晴れないでいる。先日のスコットランドのところで書いたが、故郷の田んぼの田植えは終わっているだろうか?しんしんと静まりかえった夜は蛙の鳴き声だけがこだましているのだろうか?

死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる   斎藤茂吉


 蛙のの鳴き声を、僕の子供たちは聞いたことがあるだろうか?都会で育つのは子供たちにとってよいことなのだろうか?僕は寝顔を眺めながら、不思議と故郷の実家で蛙の大合唱の中すやすやと眠る子供たちの姿を連想してしまう。

 マーラーは自らの子供を失ったことで、「亡き子をしのぶ歌」の作曲をする。その旋律は第6交響曲の第3楽章にも登場し、悲劇性と甘美性が混じったような独特の癒しの音楽である。第1楽章の静けさの中にチーンというグロッケンシュピーゲルの音を聴くと、僕は夜の蛙の合唱の中で眠る子供の姿を思い出してしまう。

 さて、この曲はマーラーの交響曲で言えば5番、6番、7番といった最も充実した曲と同じ時期に作曲されている。僕は初期の角笛時代よりもこの時期の方が「青春」や「若さ」を感じるので好きである。おそらく妻アルマと子供たちとの幸福な家庭生活の中で、マーラーの創作意欲も一番充実していたのではないだろうかと思っている。マーラーの初期の曲は童心の立場から書いたメルヘン的な要素が強いが、家庭を持つことによって、心境に大きな変化があったのだろう。子供から大人に成長する思春期と青年がいっぺんに花開いたかのような充実の中にも、不安に揺れる作曲者の心に僕はなぜか共鳴してしまうのだった。

ラベル:クラシック
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2008年08月19日

マーラー 交響曲第7番ホ短調『夜の歌』

 お盆を過ぎて、急に日が暮れるのが早くなった気がする。都会の草むらから聞こえてくる虫の鳴き声もちょっと涼しげな感じが漂ってくる。こんなに早く夏が終わっていいのだろうか。蒸し暑く寝苦しい夜の日はまだあるに違いないのだろうが。

 マーラーの交響曲第7番『夜の歌』はマーラーの交響曲の中ではあまり目立たない存在だと言われているが、僕のマーラーベストはダントツで『夜の歌』である。第1楽章の喜怒哀楽がごっちゃになったような支離滅裂さ、アンバランスな各楽章の関係、ストーリー性のない展開など、とっつきにくいと言えばそれまでなのだが、この独特の世界を偏愛する人は、きっと僕だけではないはずだ。ちなみに、僕のマーラーベスト2は第3交響曲である。

 第7交響曲と第3交響曲、この2曲は作曲時期こそ異なるが、結構似たところがあることに気づく。両端楽章が長大で重厚なこと、各楽章が直列関係ではなく、並列関係にあり全体として組曲のような印象を与えていること、第1楽章でホルンが重要な主題を吹くこと、そして、何よりも「夏の夜の世界」を描いた壮大な哲学書のような曲の印象にある。マーラーの世界観、自然哲学を交響曲として描いたのがこの2曲である。ここでは「運命」「人生」「ドラマ」「苦悩」といったキーワードが直接前面に出てこない。作曲者の視点は、心の内面ではなく、外の世界に向けられている。別の言い方をすれば、作曲者はリラックスして、構えることなく自然体でインスピレーションのままに作曲したのではないかと思うのである。したがって、この2曲はコインの表と裏のような関係にある。躁的にとらえたのが第3交響曲であり、鬱的にとらえたのが第7交響曲なのではないだろうか。


 さて、虫の歌を聞いていると、夜曲のマンドリンの響きが聞こえてきそうである。それにしても、ギターやマンドリンをはじめとする撥弦楽器はどうして夜の雰囲気を表すのに効果的なのだろうか。プロコフィエフの『ロメオとジュリエット』のマンドリンを手にした踊り(夜ではないかも知れないが、曲だけ聴いているとそんな風に感じる)やレスピーギの『ローマの祭』の第3曲『十月祭』の黄昏の情景など、本当に効果的に使われている。さあ、これから夜は長くなっていくばかりだ。夜の情緒を楽しもう。



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2008年12月22日

マーラー交響曲第2番ハ短調『復活』

 気がつけば、12月も後半に入りクリスマス目前の今日。年末のクラシックと言えば、『第9』や『メサイヤ』だが、『第9』のような英雄的な歩みを今年やってきたのかと考えると、失敗や悩みが多かったのがこの1年だった。ひそかに来年の飛躍を祈念しながら、マーラーの『復活』を聴いてみたい。

 マーラーの交響曲の中で、1番感動的に盛り上がる曲はこの曲をおいて右に出る者はないだろう。とは言うものの『第9』のように苦悩から勝利へというストーリーが単純に描かれているわけではない。マーラーはこの曲で何かを勝利したのか?

勝利と言うよりも、敗者の復活勝利への希望

 僕がいつも何度もこの曲を聴きたくなるのは、このようなところにあるかもしれない。

第1楽章   敗者の嘆き
第2、3楽章 癒しの歌
第4楽章   差し込む光
第5楽章   復活

 僕は第1楽章はあまり好きではないので、いつも第2楽章から聴いている。この曲は若々しいマーラーの姿を思いながら、聴くのがいい。それにしても、最終楽章の出だし「最後の審判」の部分は爽快だ。ハリウッド音楽のような親しみやすい旋律とリズムがこれでもかと流れていく。一度聴いたら、やみつきになる音楽の典型だ。アメリカのアマチュア指揮者ギャプランのように、この曲のみを偏愛する指揮者がいてもおかしくない。そういう意味では

爽快さという点でマーラー交響曲の金字塔

ということになるのだろう。

さて、この曲のもうひとつの特徴が、曲の構成のアンバランスな点である。『第9』やブラ1(ブラームス交響曲第1番)を想像して聴くと、肩すかしを喰らったような思いになるのは僕だけではないはずだ。フィナーレに向かって、なだらかに高揚していくストーリーではない。この曲に限らず、マーラーの交響曲を聴くときは

富士山のようなきれいな山を期待してはいけない

最終楽章も中間部は静寂に満ちていて、導入部からコーダの間のつながりが断絶しているように感じてしまう。だから、盛り上がりにイマイチ欠けてしまうところがちょっと残念。それでも、これはマーラーが敢えて意図したことなのだろう。ベートーベン式の勝利の方程式とは違うマーラー的勝利の方程式。

マーラーの交響曲では「動」よりも「静」が重要な意味を持つ。

さあ、今年の年末は『復活』を聴こう。








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2009年02月06日

マーラー 交響曲第5番嬰ハ短調

 先日、告別式に参加しました。ホールで流れていたのは、先日のブログで取り上げた

グリーグの『ホルベルグ組曲』の第4曲アリア

でした。僕は記事の中で

夜の暖炉のそばで物思いにふける(深淵を覗く)音楽


と書きましたが、告別式のホールで聴いてみると、


苦難だった昔の日を回想する音楽


にぴったりだと思えてきました。グリーグがどのような思いで作曲したのかわかりませんが、このアリアがとても深く情を震わせる名曲であることを改めて認識しました。

告別式の音楽は胸を打つものが多いですが、一昨年、ある告別式で胸を打たれたのが今日の1曲、


マーラーの交響曲第5番のアダージェット


 この弦楽器とハープで演奏されるアダージョはマーラーの書いた音楽で一番美しく、おそらく一番知名度の高い曲でしょう。僕はあまりにもこの曲が切ないので、この曲を聴くことはほとんどなかったのですが、この時、この曲の持つ力に改めて気づいたのでした。

 このアダージョを第4楽章に持つマーラーの第5は、マーラーの最も創作欲の旺盛な時に作曲された傑作と評されています。この曲はよりストレートに作曲者の心が吐露されている曲だと思います。だからこそ、僕は切なくて『第6』や『第7』の方を聴いてしまいます。役者ではない等身大のマーラーがそこには存在するように思います。

第1楽章 葬送行進曲
第2番『復活』の第1楽章も葬送行進曲ですが、この曲の方がヘビーです。痛々しさが伝わってきます。僕がこの曲に億劫なのは、この第1楽章が重いのが大きな原因です。

第2楽章 嵐のような音楽
まるで土煙が舞い上がる戦場のような音楽です。トランペットは戦場で戦い抜くための強い意志のようにリアルに響きます。この曲は具体的な戦場を描いたものではありませんが、おそらくショスタコの第7交響曲などを差し置いて、戦場の臨場感と言う点では随一ではないでしょうか

第3楽章 スケルツォ
マーラーの交響曲定番のレントラー風舞曲。痛々しい現実を離れ、子供の憧憬にしばし浸ります。

第4楽章 アダージェット
つかの間の幸福を永遠に惜しむかのような音楽です。アルマという美しい妻を得て、この幸せは続くのだろうか。今の幸せは過去のものになるだろう、「自分は幸福にはなれない男だ」という潜在意識が、知らず知らずのうちに幸福を壊そうとします。幸せを素直に受け取れないという、考えてみれば不思議な音楽です。この曲は映画『ヴェニスに死す』(トーマス・マン原作)で一躍有名になりました。「つかの間の幸せを惜しむ」というこの音楽の与える情感は、この映画のテーマにぴったりです。

第5楽章 フィナーレ
現実はそこまで悲嘆するものではないと前向きに生きようとする音楽です。第4楽章の幸せを惜しむような旋律が、生き生きと感動的にオーケストラで演奏されるのが印象的です









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2009年07月15日

マーラー 交響曲第3番二短調

 運河の水は青黒く、一目で夏が来たことがわかるようになりました。いつの間にか梅雨が明け、暑い夏がやってきました。夏の到来です。

 夏の到来を告げる曲と言えば、

マーラーの交響曲第3番

こそ一番ふさわしいと僕は考えています。第1楽章冒頭の8本のホルンによる雄大なユニゾンは、真っ青な青空にそびえる山脈の壮大さ伝えてくれます。このイメージは先入観なしに、この曲を初めて聴く多くの人が抱くのではないかと思います。

それもそのはず、この曲は、マーラーが夏休みに、自然のまっただ中にある作曲小屋で生み出したものだからです。作曲当初はそれぞれの楽章に標題が付いていました。

第1楽章「夏がやってくる」
第2楽章「野原の花が私に語るもの」
第3楽章「森の動物が私に語るもの」
第4楽章「夜が私に語るもの」
第5楽章「朝の鐘が私に語るもの」
最終楽章「愛が私に語るもの」


この標題は、作曲者自身によって打ち消されましたが、この交響曲にかけるマーラーの思いを素直に表しているものとしてとても意味があるものだと思います。

この各楽章の標題を見て、そこにあるストーリー性、法則性を僕は感じます。それは

聖書の「創世記」とそっくり

であるということです。聖書の創世記においては、植物がまず創造され、次に動物が創造されます。そして、聖書をよく読むとわかるのですが、各創造日の最後に次のような表現があります。

夕となり、また朝となった。

これは面白い表現で、マーラーの標題もこのような順番となっています。そして、創世期では最後(第6日目)に、神が人間を創造し、

「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。」

と人間に祝福の言葉をかけます。マーラーは最終楽章について「『神が私に語ったこと』と名付けることすらできたかもしれない」とも語っています。

このようにみていくと、この交響曲の特徴を一言で表すなら、

作曲家(創造者)としての喜びにあふれた曲


ということになると思います。この作品にはマーラーの他の交響曲に見られるような苦悩とかペシミズムのようなものがありません。そして、マーラーの大好きな、軍隊リズム、小鳥のさえずり、角笛などの要素がすべて顔を出します。

僕はマーラーの交響曲の中では最もこの曲が好きだし、もっともマーラーらしい傑作だと思っています。


posted by やっちゃばの士 at 23:24| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | マーラー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月19日

マーラー 交響曲第6番イ短調

 今日も快晴でした。青い海と青い空。白い雲と白い波。夏になると、なんだか自分が大きくなったような気分になります。そう、誰にでも夏は平等に訪れるのです。

 思いは高原へと向かいます。高校時代修学旅行で訪れた上高地の光に包まれた光景を思い出すのです。

緑にきらきらと輝く河面
河原に転がった無数の白い石
青空にそびえる雪をかぶった高峰
青く輝く瞳と光に輝く髪の毛



すべてが甘い思い出です。この時間は思い出でしかなく、2度と取り戻すことはできません。ときめきと名残惜しい気持ちが同居した体験でした。

 僕がマーラーの第6交響曲を初めて聞いたのがちょうどこの修学旅行直前でした。第1楽章の甘い主題(アルマの主題)や中間部の天上の牧場のような音楽が、何度も何度も頭の中を巡っていました。この交響曲はとても


スイートな感情にあふれている


と思いました。『悲劇的』というニックネームがついていますが、絶望や諦念、厭世観などをあまり感じさせないのです。チャイコフスキーの『悲愴』やブラームスの第4交響曲のもつ悲劇性とはまったく別の悲劇性がそこにはあるように思います。


幸福な生活のときめき



幸福な時が失われていく不安


が叙事詩的な音楽によって表現されていきます。まるで


ギリシア悲劇

を見ているようです。曲想だけではなく、この交響曲の古典的な引き締まった構成も「ギリシア悲劇的」な雰囲気を感じさせる要因になっていると思います。この曲の雰囲気に近いものとしては

ブラームスの『悲劇的序曲』
リヒャルト・シュトラウスの交響詩『英雄の生涯』


があげられるのではないかと思います。


4つの楽章はどれもとても印象深いものですが、やはり中心は第4楽章です。おそらくマーラーはこの第4楽章のために前の楽章を作曲して付け足したのではないか、と僕は思ってしまうほど、飛びぬけて充実しています。マーラーの交響曲の最終楽章の充実振りでは


第2交響曲『復活』とこの第6が双璧


です。よく聴けば、この2曲には共通の主題が顔を出します。


あと、さまざまな打楽器が登場するのがこの曲のもうひとつの大きな特徴です。このような多様な打楽器の使用は、内面的な意味があってのことか、外面的な音響効果を狙ってのものかわかりませんが、最終楽章のハンマーに関しては、マーラーは「英雄は運命の打撃を3度受ける。最後の一撃が、木を切り倒すように彼を倒す」と述べています。

マーラーはオーストリア辺境の田舎のユダヤ人の家に生まれました。「私はどこに行っても歓迎されない。“オーストリアにおけるボヘミア人”、“ドイツにおけるオーストリア人”、そして“世界におけるユダヤ人”だから」と自らの出自について述べているように、才能がありながらも社会からの疎外感をずっと感じてきたのでしょう。そのような彼は、音楽家的に成功し、美しい妻、子供も得ます。しかし、彼の心の根底には「ユダヤ人としての疎外感」という潜在意識があるため、


自分のこのような幸福が長続きするわけがない


と常に思っていたのでしょう。そして、「悲劇的」な第6交響曲の作曲をすることにより、現実的な悲劇の可能性を受容する準備をしようとしたのではないかと僕は考えています。





posted by やっちゃばの士 at 22:55| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | マーラー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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